1986年のインドネシアに暮らす④親父編

今も同じかもしれませんが、当時日本人駐在員は、ほとんどの人がゴルフをしていた様に思います。私自身は、営業職でもなくまたメーカーでしたので、あえてゴルフはしていませんでした。(後にやるのですが・・・)その代わり、ジャカルタ・ジャパンクラブには、ソフトボールのリーグ戦(1部~3部)があり、始めた当時は1部のチームで出ておりました。今も時々ジャカルタソフトボールのニュースをみます。盛んにやられている様でなによりです。シーズンになると毎週試合があり、家族連れの応援でよく盛り上がっていました。私自身も若手という事もあり、ほとんど試合に出させてもらいましたので、親父の少しかっこいいところは、子供に見せられたかなと自負しております。
週末は、ほとんど家族と過ごしていた親父の鏡(笑)でしたね。よく行ったのは、ホテルインドネシアのプール。ホテルは当時から古かったのですが、プールサイドは結構芝生や木があり心地よく過ごせましたね。
週末の夕食も外食が多かったですね。コタにあったシーフードの店「ネラヤン」(アンチョールにも同じ名前の店がありましたが、コタの方が庶民的)。ネラヤンは、海老の蒸したものが絶品でした。しゃぶしゃぶの「潮州」やショーロンポーのおいしかった「3・6・9」。それにブロックMの横にあった名前が「GYOZA」という餃子屋など。
もちろん日本食のレストランもありましたが、どうしても日本よりも味が落ちるのでこれといって記憶に残っていません。家で食べる妻の手料理のほうがおいしかったと思います。
アンチョールの遊園地やシアター・モービルはまだあるのでしょうか?雨季になると、よくアンチョールの手前の道が「バンジール=洪水」になり、どこからともなく子供達が現れて止まった車をおして稼いでいました。
いまもいるんでしょうねぇ。



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